写真の流儀
商売柄他人の撮った写真にケチをつけるような真似は謹しむようにしている。むろんそれを、それをいちいちブログに取り上げることもすべきではない。しかしそれにも限度と言うものがある。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae8c74c2f4550654d5f52ff99802e299df74b508/images/000
昨日の摂津盃の結果を報じるネットニュースを見て驚いた。
ご存じの通り勝ったのはシェダル。クビ差の2着はテーオーエナジー。しかし、それを伝えるゴール前写真は被写体ブレが激しくゼッケンも判読不可能。勝ち馬が中心にも来ていない。もちろん敢えて馬をブレさせるというテクニックを使った可能性も捨てきれないから、この写真の素晴らしさを理解できる人もそれなりにいるのだと思う。それでもこのブログのような個人的な場であればまだしも、新聞社の名を背負って広く世間に配信された写真だと思えばやはり言葉を失う。
写真撮影の流儀というものは様々で、10人いれば10通りの作法が存在すると言っても差し支えない。私はと言えば、若い時分に新聞流のやり方を叩き込まれたこともあり、首尾一貫「分かるように撮る」を眼目としている。
そも“写真”とは何か―――?
哲学的な話を始めたらキリがないが、私はごくシンプルに「情報伝達のためのいち手段」という考えを第一義に置いている。したがってそれが何を表しているのかが一見して分からないようでは身も蓋もない。すなわち、良い写真というものは誰が見ても分かりやすいのである。
中には写真芸術論を引っ張り出してきて「分かる奴にだけ分かればよい」というような主張を唱える輩もいるが、これは大きな間違いで、完全なる自己満足の世界にほかならない。古今東西、絵画、彫刻、小説から映画に至るまで「名作」と呼ばれるものに理解しづらい作品など存在せず、どんなに高度な技術を注ぎ込んだとしても、見る人が理解できなければそこには何も生まれない。結果、過大な自己満足に終わるのみとなる。
話がデカくなってしまったが、馬の写真にたとえると、見た人が「あぁ、これは良い写真だな」と思う写真は二流で、「あぁ、これは良い馬だな」と思える写真こそが一流なのである。ただ、そう思っていても、なかなかその領域に踏み込むことは難しい。冒頭に紹介した写真はそれ以前の問題。三流の誹りを免れまい。
実はこのレースの発走直前、園田競馬場は突然の激しい雨に襲われていた。いわゆるバケツをひっくり返したような豪雨。それで機材に何らかのトラブルが発生し、やむなく予備のデジカメで撮らざるを得なかった―――。
優しさを持って推し量れば、そういうことなのかもしれない。その状況下でなんとか出稿したのがこの写真だったという可能性もある。とはいえ仮にもプロが集まる大手スポーツ新聞社の仕事ではないか。しょせんタダで見られるネットだからと軽く考えているのかもしれぬが、万人が見ても分からぬ写真なら「敢えて載せない」という判断もできる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9057f9e0893d539ba9422a7bf3d4ed138da9501d/images/000
そんなことを考えていたら、今日の新潟2レースを報じるネットニュースにもご覧のような写真が使われていることに気づいた。ゴールから遠く離れた記者席から撮ったと思われる。2億7000万もの高額馬はいったいどんな馬なのか、これではほとんど分からない。そもそもゴール写真にケツ撮りはNG。最近はそれを教えるベテランもいなくなったのか。ゴール前まで移動する手間さえも惜しんでいるようでは、新聞メディアは凋落するばかりだ。
***** 2022/8/13 *****
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コメント
つっつさま
コメントありがとうございます。
これを戒めとしたいと思います。
投稿: 店主 | 2022年8月17日 (水) 19時35分
流石にこれは閉口せざるを得ませんね。。。
投稿: つっつ | 2022年8月15日 (月) 11時23分