豆腐の味と馬券の味
俗に通ぶる人ほど講釈を垂れたがる傾向が強い。競馬場においても、パドックの踏み込みがどうとか、血統がこうとか、聞かれもしないのにアレコレ薀蓄を並べたがる手合いの筋がいるが、本当の通はそういうことを他人にひけらかしたりはしないものである。
食事においても然り。特に歳を重ねてから食道楽にハマるのはタチが悪く、ワインの年代やらマグロの産地やら、どうでも良いことをベラベラと喋りたがる。まあ、若干自戒の念も込めつつ筆を進めるが、こういう人物にカウンターの隣に座られたりしたら、もう最悪だ。
ずいぶん昔のことだが、鮨屋のカウンターで(幸い隣ではなかった)、店主に向かってこんな話をしている客に出くわしたことがある。
「実は豆腐というのは昔は“納豆”と呼ばれていて、納豆が“豆腐”って呼ばれてたんだよ。だって、豆を腐らせたら納豆になるし、豆を型に納めたら豆腐になるじゃない。だから、歴史のどこかで言葉そのものが入れ替わったんだよ」
ちなみに今日10月2日は「豆腐の日」らしい。それでこのエピソードを思い出したというワケ。若い店主は「へぇ、そうなんですか」などと相槌を打っていたのだが、その客が帰ってから「さっきの豆腐の話なんだけどさぁ……」と私が水を向けると、「はい、出鱈目です。同じような話をかれこれ五回くらい聞かされましたけど」と笑っていた。いわゆる都市伝説。魯山人の弟子を名乗る人物が書いた書物にもそのように書かれているので、食通を自認する人ほど真に受ける人が多いのだそうだ。
「腐」の字には元来「ぶよぶよしたもの」という意味がある。だから豆腐。豆を藁に「納」めて作る納豆に説明の必要はあるまい。そもそも腐敗と発酵は明確に異なる。それにしても料理のプロに対面して臆面もなく講釈を垂れる勇気には、ただ敬服するばかりだ。
そもそも、豆腐の文字の由来を知っているかどうかではなく、豆腐の味が分かるかどうかが食通の本分であろう。私が子供の当時は、世の中から美味い豆腐が消えかけたが、志ある職人のおかげで昨今はまともな豆腐を味わうことができるようになった。
豆腐の味は微妙で繊細だ。某グルメ漫画の第1話に登場するのはダテではない。ただ、そうは言っても、昔は誰でもその味を分かって食べていた。日本人の食生活が欧米化されるにつれ、我々はソースやスパイスといった味付けのハーモニーを楽しむことができるようになった一方、それと引き替えに素材そのものの味の奥行きを堪能する感覚が失われてしまったように思える。
対策として、“調味料断ち”をしてみるのが面白い。化学調味料はもちろん、醤油も味噌もスパイスもソース・ドレッシングの類も一切使わず、味付けは塩のみの食事を続けるのである。
すると、徐々に「日本人の舌」を取り戻せるようになってくる。豆腐の豆の香りや、米の銘柄の違いなどが、薄々ながらも感じ取れるようになって、食事の楽しみもグッと広がる。もともと日本人にはそういう舌が備わっているのだから。
競馬においても然り。3連単ばかりに目を奪われていると、「勝ち馬を探す」という競馬本来の目的を見失ってしまうことに繋がりかねない。そういうときは、1日ずっと単勝だけを買って過ごしてみるというのも良策。明日はこれを実践してみようか。忘れかけていた競馬本来の味を、思い出すことができるかもしれない。
***** 2021/10/2 *****
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