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2018年8月 7日 (火)

ミスター血統を偲ぶ

昨年7月に亡くなった山野浩一さんを偲ぶ会が都内のホテルで開かれ、不肖若輩の私も末席を汚させていただいた。先週のことである。

Shinobu 

名著「サラブレッドの誕生」で1990年のJRA馬事文化賞を受賞した山野さんは、我々のような立場の人間にしてみれば「神様」とは言わないまでも、ちょっと恐れ多い人物ではある。だが、実際の山野さんは実に気さくで、我々のような若い人間の話にもきちんと耳を傾けてくださり、また間違いがあれば遠慮なしに「それは違うよ」と正してくれる人物だった。とりわけ血統論を駆使して日本競馬のフォーマットを確立したという点において、日本競馬界に残した功績は大きい。であるから、当然ながら偲ぶ会にも偉いヒトがたくさん。JRA前理事長をはじめ、あんな馬主や、こんな調教師や、そんな評論家たちで賑わっている。さすがに肩身が狭いので、知り合いのカメラマン同士で、壁際に陣取って料理に集中しつつ、会の趣旨に従って山野さんの話でグラスを傾けた。

「寺山修司を競馬に誘ったのが山野さんなんだよね」

フォアグラを頬張りながらひとりがそう言った。これは有名な話。だが、実際には半分正しくて、半分正しくない。正確に表現するなら「寺山修司を競馬場に誘ったのが山野さん」。寺山修司自らが、自伝にそう書いている。

-------【引用】-------

競馬をはじめたのは退院してまもなくだったが、競馬場へ行ったのは大分あとになってからである。

「競馬場へ行ったら、競馬は賭博でなくなってしまうだろう」

という予感が、私を暗い酒場の競馬仲間たちのあいだにつなぎとめておいたのだった。

(中略)

そんな私を中山競馬場まで連れて行ってくれたのは、山野浩一だった。

山野は、関西学院大学の学生だったころに、実験映画「デルタ」というのを作り、それを私の批評でほめられて上京してきたのだった。

私は彼に、売文の秘訣などを手ほどきしていたのだが、そのうちに競馬の話になり、私がまだ馬場に行ったことがない、というと、「それはダメだ、すぐに行きましょう」と言いだしたのだった。

私は、競馬場の叙事詩的な広さが苦手だ、と言った。実際、競馬場の緑を眺めていると、「誰か故郷を思わざる」とでも口ずさみたくなる。あの健康さは病みあがりの私にはまぶしすぎるものだったのである。

それでもとうとう引っぱりだされて、中山まで行くことになった。

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ノミ屋の受け番を務めていたこともある寺山にとって、競馬とは単なる数字の世界だった。賭ける行為は自分の運を知るためだとも書いている。その世界観を変えさせたという点において、山野氏の果たした役割はむろん小さくない。

-------【引用】-------

私がパドックではじめて見た馬は、アラブのチカラクインという馬だった。

「いい馬だね」と言うと、山野が

「あれは力道山の馬ですよ」

と教えてくれた。

チカラクインは、他馬を十馬身以上はなして、あっさりと逃げ切って勝った。

それは、いままでの②-④だとか、③-⑤といった数字だけの賭博とはまるでちがったものであった。

私は、「これからは数字ではなく、馬で買うことにしよう」と思った。

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引用した文章は1976年11月26日付の読売新聞夕刊に掲載されているから、図書館で読むことができる。ともあれ、この競馬場行きがきっかけで寺山が競馬への見方を変えたのであれば、山野氏が果たした功績はとてつもなく大きい。そういう意味まで汲み取れば「寺山修司を競馬に誘った」と言ってもよかろう。

「血統評論家」などというと、本棚に囲まれた家に引きこもり、競馬はもっぱらTV中継―――。そんなイメージを抱く方もいると思うし、実際そういう評論家もゼロではない。だが、山野さんは常に競馬場にいた。4歳も年上の寺山に「それはダメだ」と言い切ったその信念の淵を、私は目撃していたのかもしれない。そんな話で盛り上がりつつ、偲ぶ会ではすばらしく楽しい時間を過ごすことができた。お誘いいただいた関係者の方々に、この場を借りてお礼を申し上げたい。

 

***** 2018/08/07 *****

 

 

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