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2017年11月 6日 (月)

硫黄島に散った英雄

昨日の続き。

太平洋戦争末期の1944年6月。中将に昇格した栗林忠道は、硫黄島守備隊総司令官に就任。騎兵一筋の軍歴をかなぐり捨てて硫黄島に向かった。

迫りくる米軍に対し、従来の島嶼防衛戦のように水際で敵を迎え撃つやり方では、徒に兵力を失うだけの戦いになりかねない。それでは敵の思うつぼ。そう考えた栗林司令は、島全体を塹壕とトンネルで埋め尽くし、自ら先頭に立って全将兵を硫気が立ち込める地下に潜ませた。敵艦の砲撃を避け、持久戦に持ち込む作戦を打ち立てたのである。彼は、バンザイ突撃や勝手な玉砕を厳しく禁じ、なんとしても生き抜いて1人が相手兵士10人を殺すことを目標とした。

先日も書いたとおり、このとき硫黄島に馬は一頭も居なかったとされる。騎兵出身の栗林に与えられた武器は、「馬」ではなく「戦車」だった。硫黄島守備隊の援軍として戦車第26連隊が配属されることになるのだが、その戦車隊の指揮官こそ、当時中佐にまで昇進していたロス五輪・大障害飛越種目金メダリストの「バロン西」だったのである。

西中佐は硫黄島行きの命令を受けて東京を発つ際、愛馬・ウラヌスに別れを告げて、たて髪を切り取り、そっとポケットにしまった。そのたて髪はウラヌスとの写真とともに死ぬまで肌身離さず持っていたという。

オリンピックの英雄でありながら軍内部では冷遇され、よりによって最前線の激戦地に送られた西中佐であったが、騎兵出身の栗林司令とは“ウマ”が合ったらしい。硫黄島には馬はいなかったが、それでも二人は、馬について、馬術について、時間の許す限り語り合ったことだろう。しかし、米軍の上陸はすぐそこまで迫っていた。

1945年2月16日、空母12隻からなる米第52機動部隊と、戦艦6隻、巡洋艦5隻からなる第54機動艦隊が硫黄島沖に出現。3日後の19日には、大挙して上陸を開始した。「硫黄島の戦い」の幕開けである。日本軍2万に対し、米軍は7万5千。補給も絶たれた日本軍の劣勢は火を見るより明らかであった。

だから、「5日間で硫黄島を占領する」とした米軍の作戦計画は、特に驚くべきものではない。しかし、圧倒的不利の日本軍は36日間も持ち堪え、米軍側の死傷者は2万6千人にも及んだことから、「実質的には米国側の敗戦」と捉える歴史家もいる。ちなみに硫黄島の戦いは、ミッドウェー海戦後に米軍の戦傷者が日本軍の戦傷者を上回った唯一の戦闘とされ、米軍の硫黄島攻略司令ホーランド中将は「太平洋で戦った相手指揮官の中で、もっとも勇敢だったのは栗林」と述懐している。

この戦いの様子を知っていただくには、やはり映画「硫黄島からの手紙」をご覧いただくしかない。地下トンネルに潜みつつ、見えない敵を相手に戦う日本兵たちの恐怖と狂気。それを的確に表現するのは、私の文章力ではとても無理だ。

ところで、この映画の中では、負傷して洞窟に潜む西中佐に対して、「オリンピックの英雄・バロン西。我々は君を知っている。君を殺してしまうのは世界の損失だ。お願いだから降伏して欲しい」と米軍が呼びかけたという、あの有名なシーンは描かれていない。

これについては、西中佐が硫黄島にいたことを米国側が知るはずもなく、米国によって造られた美談、とする歴史的見解もある。一方で、いったん日本軍に捕らえられた米国人捕虜が、その後の米軍の攻勢で解放された際に、バロン西の存在を知らせたという話も伝わっている。気さくな人柄とされ、米国在住経験もある西中佐だけに、米国人捕虜と会話を交わしていたとしても不思議ではない。

しかし、いずれにせよ西は洞窟の中で自決。東京の馬事公苑に残してきたウラヌスも、西の後を追うように、翌年4月に老衰でこの世を去った。

米軍の攻撃が開始されてから36日目となる3月26日未明。弾薬と飲み水が尽き果てた栗林司令他400名の将兵は、最後の攻撃に撃って出る。司令はその攻撃の途中で負傷し、歩けなくなったところで部下に介錯を命じ、自らの遺体は絶対に米軍に見つからぬようにと念を押して埋めさせたという。

馬を愛し、馬と共に生きた二人が出会い、そして散った硫黄島。しかし、悲しいことにそこには一頭の馬もいなかった。

(この項終わり)

 

***** 2017/11/06 *****

 

 

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コメント

RYU様

騎兵として馬と命運を共にした長く濃密な時間が「とった手綱に血が通う」という名句を生み出したのではないでしょうか。それにしても硫黄島に行かれたというのはなんとも貴重ですねhappy01

投稿: 店主 | 2017年11月 8日 (水) 07時13分

3日の連作、力作を興味深く拝読しました。

職業柄、(といっても両氏ではなく高松宮殿下の方の後輩ですが)、このお二方のことは、大変身近に感じられます。某大学3年の時に研修で硫黄島への墓参を果たしました。

栗林中将が馬事文化への大きな貢献をしたことは、疑いのない事実ですが、陸軍省馬政課長の時に公募した「愛馬進軍歌」の歌詞に「とった手綱に血が通う」の一行をみずから書き入れたようです。

「とった手綱に血が通う」というこの表現は、日本の馬事文化史上においても比類のない、秀逸な人と馬のつながりを表す名文句だと思っています。

私は乗馬経験はないので、口取りで綱を握る度にこの文句を肌で感じ、思い起こしています。

投稿: RYU | 2017年11月 7日 (火) 19時20分

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