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2017年2月 7日 (火)

トキノミノル記念

今週の東京メイン・共同通信杯には、「トキノミノル記念」の副題が付いている。トキノミノルのダービーは1951年だから、よほどのベテランでない限りその雄姿を目撃したことはあるまい。むろん私とて例外ではない。

ただ、現代のファンもトキノミノルの名に触れる機会はある。それが、東京競馬場パドックのそばに立つトキノミノル像。かつては待ち合わせの定番だった。このブロンズ像を永田雅一オーナーが東京競馬場に寄贈したのは1966年のこと。翌年から共同通信杯4歳Sが始まる。そこから回を重ねて共同通信杯は今年が51回目。ちょうど半世紀の歴史を誇る。

伝説のダービー馬・トキノミノルが「パーフェクト」という馬名でデビューしていたのは有名な話。デビュー戦でのレコード勝ちに気を良くした永田氏は、馬名を「トキノミノル」に変更した。「トキノ」は永田氏が尊敬していた菊池寛が好んで使った冠号。それが10戦無敗でダービーを勝つのだから、氏の慧眼はさすがと言うべきか。デビュー戦のレースぶり次第では、共同通信杯の副題は「パーフェクト記念」になっていたかもしれない。

そのトキノミノルにはライバルがいた。それが同い年のイツセイ。3歳時に64キロを背負いながら安田賞(現在の安田記念)をレコード勝ちし、4歳時には73キロをものともせず中山ステークスに勝っている。通算32戦21勝で、2着が8回。30戦以上しながら連対率9割6厘は素晴らしいのひと言に尽きる。

しかし、同期にトキノミノルがいたことは、イツセイにとって不運だったと言うほかなかろう。イツセイは朝日杯からダービーまで5戦して、すべてトキノミノルの2着に甘んじた。それでも朝日杯の4馬身から、3馬身、2馬身、2馬身、そして1馬身半と、着実に差を詰めていた事実は強調しておきたい。

両者の最後の対戦になった1951年6日3日のダービーの朝。トキノミノルに脚部不安説が流れる。実は、ダービーの9日前にトキノミノルは裂蹄を発症していた。ダービー出走も危ぶまれる事態だったとも言われる。イツセイにとっては千載一遇のチャンス。もし、ここで勝っていれば、ひょっとしたら共同通信杯の副題は「イツセイ記念」になってたかもしれない……なんてコトにはならないか。

Tokino 

トキノミノルは血の滲む脚でダービーをレコード勝ちしたが、その17日後に破傷風によりこの世を去る。こうして彼は「幻の馬」となった。破傷風発症の原因は蹄の傷口から菌が入ったためとされる。命を賭して成し遂げたダービー制覇。だからこそ、このレースが今も特別なものであり、ダービーを目指す3歳馬たちの登竜門たるレースの副題となっているのであろう。ドゥラメンテ、ディープブリランテ、ジャングルポケット……。共同通信杯好走をステップにダービーを制した馬は列挙に暇がない。今年の出走馬からダービー馬は誕生するだろうか。その一頭一頭を、トキノミノルはパドック脇から今も見守っている。

 

***** 2017/02/07 *****

 

 

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