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2016年12月 2日 (金)

三里塚へ

富里周辺の牧場や乗馬クラブをぐるぐる回って走るうち、とある交差点の信号機に備え付けられた地名表示板に目が留まった。

三里塚―――。

その地名に抱く印象は世代ごとに大きく異なるはずだ。馬と桜の御料牧場から、流血の反対闘争を経て、成田空港へ。時代の流れに大きく翻弄されてきた土地である。私が某国立大学に入学した頃には既に闘争は下火になっていたが、それでもキャンパス内にはヘルメットにサングラス姿の連中がウロウロしていた。倉庫が突然燃えたりすることも。だが、先輩は特に驚きもせず「セクトの連中の仕業だ」とだけ呟いた。

構内では「集え!三里塚へ!」という看板をよく目にした。別の先輩は「あのテニスサークルに入ると三里塚に連れていかれるから気を付けろ」と言う。以来、「三里塚は怖いところ」というイメージが染みついてしまった。三里塚界隈にお住まいの方にはたいへん失礼な話である。己の無知と不明をお詫びするしかない。ただ、今回、期せずして赤信号で停止した交差点の地名が目に飛び込んできた時、ついドキッとしてしまったことも事実。ここがあの三里塚か。

交差点を北上すると、左手にマロニエの並木が茂る風情ある公園が見えてくる。立派な門から並木道を進むと、その奥にあるのは御料牧場記念館。かつてこの地に広大な敷地を有し、成田空港開港と共に那須に移転した下総御料牧場の名残だ。

Goryo1 

1875年に大久保利通が開設した国営の下総牧羊場、取香種畜場がその前身。のちに宮内省に移管され、昭和天皇をはじめ多くの皇族が訪れ、乗馬を楽しまれた。何より我が国における競走馬生産の原点でもある。種牡馬トウヌヌソルやダイオライトが繋養され、輩出したダービー馬は実に6頭。いま私が立っているこの敷地も、かつては皇族ら一部の要人しか立ち入りを許されない場所だった。

Goryo2 

記念館は入場無料。スリッパに履き替えて、パンフレットを手に取ると、どこからともなくオジさんが現れて、解説を始めた。これは何年前のこのあたりの風景です。これは昔使われていた鞍です。これは江戸時代に野馬を追いかけて捕まえる時に使った集落の幟です。実物です。これは、んー、とにかく古い馬具です―――。等々。

そして、戦後に外交官を招いて御料牧場で開かれた食事会の光景を写したという写真の前で、オジさんが「今でこそジンギスカンは北海道の名物料理ですが、その発祥はここ三里塚にあるとも言えるのです」と熱く語り始めた。羊を焼いて食べる風習はあちこちにあったが、あの独特のタレを考案したのが、この御料牧場だという。ふーむ。そうなんですか。写真にはたしかにジンギスカン鍋が写っているが、残念ながらタレの味までは伝わってこない。

目を引かれたのはヒサトモのブロンズ像。当時、ダービー優勝を果たした馬主はこうした記念のブロンズ像を作成し、関係各所に贈呈したのだそうだ。その費用はダービー優勝金額に匹敵するほどだったいう。しかしもちろん金額などは問題ではない。

「現代のクオカードですね」

そう言ってみたが、オジさんには何のことか分らなかったようだ。

建物を出ると一体の銅像が鎮座していた。牝系の礎として今なおその名が語られるビューチフルドリーマーやフローリスカップなどの繁殖牝馬の輸入に携わった新山荘輔。彼はこ御料牧場の第5代牧場長でもあった。さっきのオジさんは「たいへんな篤志家」とおっしゃるが、我々にとっては「日本馬産界の父」に違いない。

Goryo3 

その銅像を見ていたら、私の抱いていた三里塚の印象が、まるで違うものに変わっていることに気付いた。現地に来なければ分らないものがあるのは当然だが、現地に来なければ変われないものもあるのである。勉強になった。成田界隈にはジンギスカンの専門店があるらしいから、こうなったらそれも一度食べてみなければなるまい。

 

***** 2016/12/02 *****

 

 

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