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2014年11月19日 (水)

対談に見る日本文化

昔、とある企画で対談の進行役をやらされたことがある。

「やらされた」と書いたのは、つまりそれが私の意に沿った役回りではなかったから。本来の進行役が何かの事情で現場に現れず、写真係でたまたま現場にいた私に白羽の矢がグサッと突き刺さってしまったのだ。対談するのは某馬主と某元騎手。何かしらのテーマがあったはずなのだが、いざ対談が始まるとトークの中身は全くあさっての方向に流れて、プチパニックになったことくらいしか覚えていない。いま思い出しても冷や汗が出る。

ちなみに日本のような「対談」という編集スタイルが、ごく普通に誌上に溢れている国は珍しいのだそうです。

異なる立場の二人が意見をぶつけ合えば、当然ながら摩擦が生じるし、編集者の意図とは違う話に展開することの方がむしろ多い。しかも、それを頁数の限られた雑誌に掲載しなければならない。もし米国人同士があるテーマに沿った「対談」をすれば、それは間違いなく「討論」になることは目に見えている。「どちらか片方が相手を論破するまで、徹底的にやり合おうじゃねぇか!」なんてことになって収拾が着かなくなる恐れもあるし、たかが雑誌の数頁にそんな面倒な手間をかけるわけにもいかない。

そういう意味では日本の雑誌に登場する対談は実質的には歓談、あるいは世間話みたいなもんですね。

業界には食事付きの対談なんていうのも結構ある。一流割烹から取り寄せた弁当に箸をつけつつ、お互い適当に相槌を打ちながら実に和やかな雰囲気で対談は進む。そして、頃合いを見計らって「では、そろそろシメに…」みたいな空気が流れて、収まりの良い結論が出ておしまい。ほとんどがそんなパターン。なんというか、その辺は「あうんの呼吸」としか言いようがなく、これぞまさしく日本人独特の文化なのかもしれない。

そういえば、私が対談する側に回ったことも何回かあった。対談と言っても5~6人で会話する形態だったので、正確には「座談会」と言うべきだが、たしかに「場の雰囲気を損ねないように」とか「話題を変えるタイミングに注意しなきゃ」とか、それなりに気を遣ったという思い出がある。

Gate 

座談会というのも意外に難しいもので、最初のうちは「今日の議論をリードする人はいったい誰なのか?」なんてことを参加者全員が探り合う展開になって、会話の流れが澱んでしまうケースが多い。騎手もゲートが開くと同時に「誰がペース作るんだ?」みたいなことを探りながら乗っているわけだけど、それとなんとなく似ていますね。

 

***** 2014/11/19 *****

 

 

 

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