« 【訃報】タイキブリザード | トップページ | 公営競馬の父② »

2014年8月21日 (木)

公営競馬の父①

今宵も開催中の川崎競馬場は1950年にオープン。かつては府中、中山を凌ぐ人気を誇り、米軍に接収された根岸競馬場に代わり中央競馬に編入される動きさえあった。そんな競馬場が誕生した影には、ある意外な人物の決断があったとされる。

終戦後の1948年11月2日。川崎駅前に8人の紳士が降り立った。

後楽園スタヂアム社長・田辺宗英、函館船渠会長・富永能雄、生保協会会長・小林中、日本自動車工業会会長・弓削靖、第二次岸内閣で運輸大臣となる永野護、のちによみうりランド社長となる高橋雄二。そして、正力松太郎その人である。

読売新聞社の社主として経営手腕を発揮しただけでなく、テレビ放送の礎を築き、さらにプロ野球の「正力松太郎賞」にもその名を残す正力松太郎は、「テレビ界の父」あるいは「日本プロ野球の父」などとも呼ばれる。しかし彼が競馬場建設に情熱を燃やしていたことを知る人は、それほど多くはあるまい。

彼ら8人の目的は、東芝軍需工場の跡地活用のための現地視察である。川崎市は戦時中に首都圏でもっともひどい被害を受けた。というのも、市のほとんどが工場地帯で、しかも東京と横浜の中間にあるため格好の爆撃目標となり、駅周辺から海側にかけては瓦礫だけが残る廃墟と化していた。

一行は海まで見渡せる広大な焼け野原に立って、しばらくは言葉も出なかったという。瓦礫にまじり雑草がところどころに茂っているだけで、あとは何もない。

「野球場はどうでしょうか?」

高橋雄二が口火を切った。高橋は川崎貯蓄銀行などに勤務して、8人の中では川崎市をもっともよく知る人物である。

野球―――。その言葉をきいて、後楽園スタヂアムの田辺社長が、

「ここは交通の便がよくない。人は集まらん」と首を横に振った。

高橋はさらに言う。

「では、競馬場はどうでしょうか。県では戸塚にある競馬場を移したいという考えがあるようですが……」

そう話し始めると、それまで黙って周囲を見渡していた正力松太郎が「競馬場なら人は集まる。野球は趣味で見るが、競馬は欲もからむから少々遠いところでもやってくる。競馬場にしよう」と言い切った。

他の同行者たちも賛成し、8人全員が発起人となって、競馬場建設事業を始めることがその場で決まったのである。

青空の広がる焼け野原で、しかも立ったままの巨頭たちによる、歴史的な合意だった。

(明日付に続く)

※本文内、敬称略

 

 

|

« 【訃報】タイキブリザード | トップページ | 公営競馬の父② »

競馬」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 【訃報】タイキブリザード | トップページ | 公営競馬の父② »