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2014年8月23日 (土)

公営競馬の父③

(昨日からの続き)

発起人代表・田辺宗英と神奈川県知事・内山岩太郎との間に「仮契約書」が交わされたのは、1949年6月15日のこと。これに先立って、川崎市議会は48年11月に競馬場指定地を決定し、神奈川県議会も49年3月に県営競馬場の建設地と決定していた。

県との仮契約を済ませてからの競馬場建設は急ピッチで進んだ。翌50年1月25日からの第1回県営競馬が予定されていたため、それまでに竣工させる必要がある。正味40数日の工期で、1周1200mのトラックと、観覧席、投票所、パドック、売店などの関連建物を作り上げなければならない。文字通りの突貫工事となった。

結果、竣工当日が開催初日という離れ業を演じて、オープンにこぎつけたのである。

初日には焼け野原に長蛇の列が続いた。川崎市に活気がよみがえり、市民たちの表情も明るかった。

8人の巨頭が、再び川崎に集まったのは、最初の視察の日から1年余を経た50年1月25日。すなわち、競馬開催の初日である。

市街地の多くには、まだ戦争の残骸が散らばっているというのに、かつての東芝の工場跡地だけは、まるで別世界であった。焼け野原の真ん中に立ち、「ここに競馬場をつくろう」と誓ったあの日から、それぞれが奔走した成果が、今ここに実ったのである。

第1レースを知らせるファンファーレが場内に流れると、正力らは感慨深げに見入った。スターティングゲートなどない当時のこと。発走ロープが跳ね上がると、ばらつきながらも各馬がスタートを切った。

第1回県営競馬6日間の入場者は5万1千人。売り上げ総額は8200万円。当時の全国地方競馬の新記録となった。

この年の8月13日には「読売新聞社杯・川崎記念」が行われたが、同じ日に全国地方競馬初の3歳馬による重賞「全日本3歳優駿」も行われた。その賞金は中山の朝日杯3歳Sを超えていたというから、当時の盛況ぶりが見てとれる。この2つのレースがJpnⅠの格付けを得ているのは、先人たちの努力と信念の賜物だと心得るべきであろう。

(明日付に続く)

 

 

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