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2014年8月22日 (金)

公営競馬の父②

(昨日からの続き)

終戦後、焼け野原と化した川崎・東芝工場跡地に集まった8人の名士が、この場に競馬場を造ることを決めたはいいが、問題はその資金をどう集めるかにあった。

当時は資金調達法の時代である。必要度に応じて、甲、乙、丙の種別に分かれ、銀行ではその序列に従って融資していたのだが、優先順位は学校や病院の建設がトップ。当然のこととはいえ、競馬場は遊戯場関係扱いとなっており、融資部門では丙にすら入っていなかった。

そこで、18名もの政財界有力者を発起人とし、「これからの競馬は、再び社交機関としての競馬本然の指名に復帰すべきだ」と当時としては大胆に謳いあげ、遊戯場ではない社交場としての競馬の必要性を訴える作戦に出た。

この18名の中には、東急グループの総帥・五島慶太(当時は公職追放中のため「内外証券取締役」の肩書)や、京浜急行電鉄社長の井田正一。さらにトヨタ自動車工業の社長として采配をふるっていた豊田喜一郎の名前が見える。いち競馬場の建設と事業体のバックアップのために、政界や財界、実業界の一流人が協力した例はほかにない。

ちなみに、このとき競馬場施設所有会社として創立された「川崎競馬倶楽部」こそ、現在の「よみうりランド」の前身である。今では日本を代表する総合レジャー企業も、そのルーツは競馬場にあった。

■目論見書における事業概要の説明全文

日本の競馬の沿革を顧みるに簡単に言えば我が国の競馬は、文久二年に横浜在留の欧米人が欧米流の斜行機関として開始したのに創るのであります。
それから段々に軍事目的に利用せらるる様になり、昭和十一年に日本競馬会が設立せらるるに至っては最早社交機関としての性質は失わしめられ軍馬の為の国策機関と化して終戦に至りました。従って日本が軍備を捨てた今日日本の競馬は根本的に建直し国家財政及地方財政に寄与すると共に再び社交機関としての競馬本然の指名に復帰しなければならないのであります。

■発起人と主な肩書

田辺宗英
後楽園スタヂアム社長

井田正一
京浜急行電鉄社長

坂薫
八千代証券社長

豊田喜一郎
トヨタ自動車工業社長

富永能雄
函館船渠会長

遠山元一
日興証券社長

永野護
弁護士

永田雅一
大映社長

松根宗一
後楽園スタヂアム取締役

近藤貫一郎
土木建築近藤組組長

小林中
生命保険協会理事会会長

五島慶太
内外証券社長

木村球四郎
木徳証券社長

三宮吾郎
ヂーゼル自動車工業社長

弓削靖
播磨産業監査役

三橋幸三
山叶証券社長

箕浦多一
日産重工業社長

正力松太郎
日本野球連盟会長

(明日付に続く)

 

 

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