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2014年8月24日 (日)

公営競馬の父④

(昨日からの続き)

よみうりランドの手にかかる競馬場には、川崎のほかにもうひとつ、船橋がある。

船橋競馬場のビッグタイトルに日本テレビ盃があり、報知新聞の社杯が、大井や浦和ではなく、川崎(報知オールスターC)と船橋(報知グランプリC)で行われているのは、何も適当に決まった話ではない。ちなみに、昨日も書いたように川崎記念も創立当初は「読売杯」が授与されていた。

1950年1月の川崎競馬場竣工から3か月後に着工。日本初のスパイラルカーブに7基の新式発馬機、そして最新鋭のフォト・チャートが採用され、着工から半年足らずで船橋競馬場は完成した。これに合わせて、「川崎競馬倶楽部」は「関東競馬倶楽部」と改称されている。

しかも、船橋に関してはこれだけに終わらなかった。

「働かせてばかりでは馬が可哀想だ。温泉で休養させてやってはどうか」

そんな正力の発案で、世界でも初めての競走馬専用の温泉施設が、59年11月に船橋競馬場内にオープンしたのである。今でこそ馬の温泉はごく普通の施設となっているが、その嚆矢がはるか昔の船橋にあったというのは、なかなか興味深い。

パドックや装鞍所のある場内西側の奥に入湯場が造られ、それを取り巻くように診療室、入院厩舎、歩様検査場などが建設された。診療室には、馬用のレントゲン、心電計、筋電計、超音波療法装置といった設備が施されていたというから、半世紀以上も昔のことと思えばその充実ぶりに驚かされる。

当時は競馬の人気が急上昇。そのため開催日数が増え、競走馬の無理使いが横行していた。当然のことながら故障率は増加の一途を辿る。故障馬の治療効果を早めるとともに、健康馬に対しても温泉浴でリフレッシュさせ、人間同様に英気を養わせるべきだ、というのが正力の考えだった。

当時も調教師や馬主は故障馬に対する“湯治”を行ってはいたが、温泉地までの輸送が馬にとって大きな負担となる上、馬のための運動施設も人材もなく、船橋の温泉は厩舎関係者にとって待望の施設だった。関西の厩舎からも、利用したい旨の申し出があったという。

この功績が認められ、正力は59年の競馬記者クラブ賞(公営競馬部門)を受賞している。ちなみに同じ年の中央競馬部門の受賞者は「ミスター競馬」こと野平祐二氏だった。

関東のいちブロック紙に過ぎなかった読売新聞を全国紙へと発展させた正力の手法は、紙面の大衆化とプロ野球に代表される事業開拓にあった。それは読者と密着したもので、「大衆と共に、笑い、喜び、楽しむ」という正力独特の発想によるところが大きい。突貫工事の末にふたつの競馬場を造り出したその情熱は、大衆に娯楽を提供しようという願いをこめてのことであろう。そういう意味において、彼は「公営競馬の父」でもあった。

 

■1959年競馬記者クラブ賞(公営競馬部門) 正力松太郎氏受賞理由

船橋に競馬の保健と治療に新分野を開拓する意図のもとに船橋競走馬温泉場、船橋競走馬温泉研究所を設立、科学的検診、治療に必要なあらゆる器具を備え、その道の権威を招いてその衝に当たらせるなど日本の競馬会に貢献するもの大なるものがあった。同氏は昭和二十五年一月川崎競馬場を設立して当時競輪攻勢で気息えんえんの状態にあった公営競馬にカンフル注射の役目を果たし、また公営競馬の大衆化を強力にPRするなど今日の基礎をつくった。

(この項終わり)

 

 

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コメント

さっさん様

コメントありがとうございます。
地方競馬には厳しい時代が続いていますが、よみうりランドの現経営幹部が正力氏の思いを汲んでいる限り、川崎、船橋の両競馬場は大丈夫だと信じます

投稿: 店主 | 2014年8月28日 (木) 08時16分

全く知らないことばかりで、大変勉強になりました。
ありがとうございますsign01

投稿: ギムレット | 2014年8月25日 (月) 13時36分


いつもながら読み応えがあるエントリーをありがとうございます。

正力松太郎氏は、様々な立場の方から毀誉褒貶があります。 今回のエントリーを拝読して、彼への新たな視点を獲得出来ました。
競馬関係者のみならず、政財界の方々のご尽力あったればこそ、日本競馬の歴史は発展してきたこと。改めて心に刻みました。
またエントリーを楽しみにしてます。

投稿: さっさん | 2014年8月25日 (月) 12時17分

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