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2014年4月 1日 (火)

昨日今日と、「運」というものについて考え続けている。

Kopa  

小林祥晃オーナーがGⅠ連勝を果たした影響も、決してゼロではない。人知の及ばざる処にある「運」を、それでも環境や行動を通してコントロールしようという試み   それがDr.コパ氏の得意とする風水であろう。そんな試みの可否はさておき、日常の生活では思いの至らぬ「運」というものの深層領域に思いを寄せたくなったのである。

ギャンブルとしての競馬がファンの心を捉えてやまないのは、人知の及ぶ処と及ばざる処の割合が絶妙だからではあるまいか。人知の及ぶところはいわゆる「技量」や「知識」であり、及ばざる処はすなわち「運」である。

「運」がすべてを支配する賭の代表格は宝くじだが、競馬ほど病的かつ慢性的かつ執着的なファンは少ない。逆に「技量」がすべてを決める将棋やチェスで、賭ける行為は原則として行われない。熱心なファンが多い麻雀や競馬は、勝てば自分の選択が正しかった信じ、負ければツキがなかったと諦めがつく点が優れている。まさに「技量」と「運」のバランスの妙である。

この両者のバランスは、実は我々の人生にも通じ合っている。人間が生きていくには「技量」や「知識」が欠かせないが、それでもしばしば「運」という名の天使に翻弄される。いかに高度な分析や確率論上の担保を伴っていたとしても、それで予知不能なリスクをすべて避けられるわけでもない。戦績、時計、展開、血統をどれだけ分析したところで、想定外の出遅れや他馬による妨害に見舞われることだってある。人生は競馬なのだ。

果たして「技量」が「運」を完全に支配することなど可能なのだろうか? もし、それが可能ならば、馬券などというものは消えてなくなってしまうかもしれない。

パスカルやフェルマーといった大数学者は、すべての「運」を解明せしめ、あらゆる偶然を人知の及ぶ処にしようと確率論を発展させたが、そこに秘められた大きな謎を手中に収めることはついにできなかった。

我々は馬券が外れると「ツキがなかった」と思う一方で、「なぜこれを見落としてたんだろう?」と原因を探ることも実は忘れない。それで多少の「技量」や「知識」を習得し、同じ過ちを繰り返さぬようわずかばかりでも進歩はしているはずなのだが、それでも「運」という魔女の前では100%の解決などあり得るはずもない。

結局のところ、生きる上では「運」と上手く付き合っていく他ないのであろう。「上手く生きるための技量」とは、実は「上手く運と付き合うための技量」に過ぎないという気もしてくる。

パスカルもフェルマーも晩年はギャンブルに溺れた。希代の大数学者たちも、最終的には「運」には逆らえぬと悟ったのかもしれない。

 

 

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