2017年7月20日 (木)

消えた夏休み

昨日、関東の梅雨明けが発表された。いよいよ本格的な暑さがやってくる。それに合わせたわけでもあるまいが、南関東では今週は重賞レースが用意されていない。競馬番組も本格的な夏休みモードに突入している。

昔はもっとはっきりしていた。今から25年前、1992年7~8月の番組を振り返ってみれば分かる。JRAでは、7/18-19、7/25-26、8/15-16の3週に渡ってサラ系平地重賞が行われていない。南関東ではもっと少なくて、この2か月間に行われたサラ系重賞は、関東盃(現在のサンタアニタトロフィー)とトゥインクルレディー賞(現在は廃止)の2鞍のみ。当時の黒潮盃は春シーズンに行われており、ジャパンダートダービーも、スパーキングレディーカップも、習志野きらっとスプリントも、スパーキングサマーカップも、アフターファイブスター賞さえも創設されていなかった。

重賞で活躍するような実力馬は、春からの連戦で溜まった疲れを取り、さらに秋競馬に向けて英気を養わなければならない。そのためには、夏場は涼しい牧場でゆっくりと休養するのが当たり前だった。重賞をやろうとしたところで、肝心の馬が集まらなかったという方が実情に近い。

Summer 

そこで夏場は条件馬の出番となる。普段は見向きもされない未勝利馬や下級条件馬たちが、番組の主役に祭り上げられるのである。むろん夏場を休みに充てるのはオープン馬だけとは限らないから、大半が10頭前後の少頭数競馬。しかも1日9鞍とか10鞍という開催が続く。たまたま出走頭数が多い500万条件戦がメインレースに据えられることも珍しくなかった。むろん見ている方は面白くはない。しかしそれが夏競馬なのだから、受け入れるしかないのである。

だが、我々は経験的に知っていた。夏競馬をおろそかにすると、秋の競馬で必ず痛い目に遭う。少頭数の下級条件戦でも印象に残る勝ち方を見逃してはならない。夏から秋は馬が大きく変わる季節。大化けの可能性を秘めている。真夏の太陽の下に、それでもなお輝く超新星を探すことが、かつての夏競馬のあり方だったように思う。

Daiwa 

しかし時代は変わった。今や年間を通じてJRA重賞の行われない週末はない。馬券売上げを伸ばしたいという主催者側の思惑と、オープン馬だからといって休ませてもいられぬ馬主側の思惑が一致した結果の産物。オフ感の強かった「夏競馬」のイメージは、もはやない。なにせ先週の名鉄杯には2頭のGⅠ馬が出走。さらに今週の中京記念には、なんと天下のダービー馬が出走するというではないか。

長い歴史を紐解いても、ダービー馬が真夏のマイルGⅢに出てくるなど前代未聞であろう。ダービーを勝ちながら夏も休ませてもらえぬ馬に対し、私は激しく同情する。なぜか。ダービーも勝っていない私ごときでも、いままさに夏休みの真っ最中だからだ。

夏の甲子園でさえ、健康面を配慮して中止や日程見直しの声が挙がる昨今、動物愛護の観点から真夏の競馬に対する異論が出ぬのは、逆に不思議にも思える。夏の名古屋の暑さは厳しい。よりによって中京記念が行われる日曜日は、二十四節気の「大暑」。人間が堪える暑さに馬が堪えぬわけがない。

 

***** 2017/07/20 *****

 

 

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2017年7月19日 (水)

一着に込められた想い

昨日の続き。福島競馬場のすぐそばで勝負服の製作を手がける「河野テーラー」さんの話。

3代目として政平さんのあとを継いだのは、甥の正典さん。盛岡でのサラリーマン生活からの転身だった。その時、先代の政平さんに「一人前になるには5年はかかる」と告げられたそうだが、2年ほどの修行でそれなりの服が作れるようにはなった。最初に作った勝負服は、先代の頃から懇意にしてもらっていた半沢信弥オーナーの服。ピンと来ない人でも「グラス」の服色と聞けば「あぁ、あれか」と思うのではないか。

しかし、その一着を実際に着ている騎手の姿を見て、正典さんは違和感を覚える。勝負服のキモとも言うべき模様がゆがんでしまい、きれいに見えない。繰り返すが、勝負服は馬主の「顔」である。それがゆがんでしまうとなれば一大事。その時になってようやく先代の言葉の意味を痛感した。そんな思い出深い勝負服を纏った的場均騎手とグラスワンダーが連覇を果たした1999年の有馬記念は、正典さんにとって忘れられないレースだったという。

Grass2 

しかし、そんな思い出を一気に吹き飛ばす出来事が福島を襲う。6年前の東日本大震災。地震の揺れで仕事場は壁が崩れる被害を受けた。そこに原発事故が追い打ちをかけ、福島競馬は中止の憂き目に。物流も止まり、完成した勝負服を依頼主に送ることもできない。さらに「放射能が怖いから」と注文をキャンセルする顧客も現れた。この年の売上は例年の6割に留まり、「もうダメかなと心が折れそうになった」そうだ。

そんな窮地を救ったのは意外な人物だった。当時、浦和の騎手だった水野貴史調教師。周囲にも声をかけて、たくさんの注文を集めてくれたのだという。それがきっかけとなり、新たな顧客も開拓。いまでは、売上は震災前の1.5倍に増えた。「水野さんがいなければ、今の自分はない」。いま正典さんは、そう振り返る。

Mizuno 

最近では、店を訪れる熱心な競馬ファンもいるそうだ。そんなファン向けにミニチュア版の勝負服も発売も始めた。「勝負服から福島競馬を盛り上げたい」。3代目の作る勝負服はこの夏も福島競馬を鮮やかに彩っている。その一着一着に込められた思いは、夏の福島の暑さより熱い。福島開催も今週末で終わりだ。

 

***** 2017/07/19 *****

 

 

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2017年7月18日 (火)

鞭を針に持ち替えて

勝負服の話の続き。

早いもので、夏の福島開催もあと1週を残すのみ。そんな福島競馬場に福島駅から向かう途中、国道4号の東側に並走する通りを競馬場に向かっていると、競馬場の手前500mほどの道路右手側に「河野テーラー」という看板が見えてくる。知る人ぞ知る有名店。なにせJRAや南関東で使われる勝負服の約半分をまかなっている。この店が仕立てた勝負服を着たことがないという騎手は、ほとんどいないのではないか。

Fukushima

先代社長の河野政平さんは元騎手という異色の経歴の持ち主。だが、56キロの体重から過酷な減量との戦いの日々を強いられた。そんなある日、乗馬ズボンを作ってもらったことがあった初代社長の河野正太郎さんから「うちに来ないか」と声をかけられたのだという。

鞭を針に持ち替えることを決意したのは22歳の時。以来、約半世紀に渡り勝負服ひと筋の職人人生を歩み、福島市が認定する技能功労者にも選ばれた。

勝負服に使える色や模様には様々な制約がある。だが、制約に縛られていては、体にフィットし、見た目にもバランスの良い服は仕上がらない。

勝負服は馬主の「顔」とも言える存在。1着2万円前後の製作費はむろん馬主持ち。それなのに、制約を言い訳に馬主が納得できないような服を作るようでは、仕立て屋のメンツが立たない。制約の趣旨は尊重しつつ、見た目に格好良く、なおかつ機能性に優れた勝負服に仕立て上げるのがプロの技。シェアナンバーワンの理由がここにある。

最近では当たり前になったメッシュ地の勝負服も、河野テーラーがその発祥。暑さ極まる夏開催を受け持つ福島ならではの発想だろう。

Jockey_2

政平さんは十数年前に他界したが、その妻・太子さんは昭和30年代の福島競馬の光景をしっかりと覚えている。当時は騎手や調教師の寮もなく、競馬の近所の一般家庭が競馬関係者の宿泊を受け入れていたそうだ。河野テーラーに寝泊まりしていたのは調教師。きっぷが良い人ばかりで、競馬のない日は子供たちを映画や食事に連れて行ってくれたという。

福島は日本でいちばん競馬と町の人が溶け込んでいる土地に違いあるまい。訪れるたびにそんな思いがなお強まる。それというのも、こうした家族ぐるみの付き合いが下地としてあったからであろう。

 

***** 2017/07/18 *****

 

 

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